Konrath と Crouch の新作!

517mnk.jpg
ミステリ作家の J. A. Konrath 氏から宣伝用に新作 Stirred の書評を書いてほしいと一カ月くらいまえに頼まれました。ちょっと時間がたってしまったけれど、約束だから書きましょう。

まずなぜ書評を書くのに時間がかかったかということを言い訳しておきますと……

決して読むのをなまけていたわけじゃないんです。出版前の原稿をもらってからすぐに読み出したんですから。ただこの作品はわたしの苦手なタイプの本だったのです。映画で言うと「ソウ」に似ている。そして「ソウ」はわたしは見るのがイヤな映画なんですねえ。ゾンビものは大好きなんですが……。それで380ページのうち、最後の100ページ、おそらくもっとも「ソウ」的な内容が展開されているであろうクライマックスの部分がどうしても読めなくて困っていたのです。しかし、原稿を受け取ってから一カ月もたってしまったし、しょうがないから最後の部分は読まずに、書評を書くことにしました。逆に「ソウ」がお好きな方は、この本は絶対楽しめると思いますよ。ハイ。

Konrath 氏から書評の依頼があったのは一年前の Draculas 発刊以来です。あれは共作でしたが、今回も Blake Crouch との共作。この作品の目玉は、Konrath の生み出したヒロイン、ジャック・ダニエルスと、Crouch の生み出した最悪の殺人鬼ルーサー・キングがガチでぶつかるという設定になっていることでしょう。

ジャック・ダニエルスは(この作品では)シカゴ警察のもと警部です。女だからといって見くびっちゃいけない。数々の凶悪犯とたたかってきた敏腕警部です。英語には「天使も入るを恐れるところ」という言い方がありますが、これは「ジャック・ダニエルスも…」と書き換えるべきでしょうね。それくらい彼女は勇猛果敢、マッチョな男を越えたマッチョな女です。本編では妊娠して腹ボテ状態なのに、殺人鬼にむかって毒ガス渦巻くなかを突っ走る。

一方ルーサー・キングはいわゆるサイコです。変質者で、でも妙に知能指数が高そうな、残酷無比の殺人者です。パズル仕立ての連続殺人を仕組んだりして、本当に「ソウ」のあの殺人鬼とよく似ています。

共作者それぞれが大切に育ててきたキャラクターが激突し、さらにどちらのキャラクターもこの作品を最後に姿を消すのですから、作者たちは面白いものを書こうと必死になっています。恐怖シーンあり、お笑いあり、ちょっとしたロマンスあり、派手なアクションあり、とにかく読者を楽しませようとする意気込みが非常によく伝わってきます。

章立ては短く、場面や視点が次々と変わり、決して飽きがきません。しかも描写には映画的なグラフィックさがあります。わたしみたいな心臓の弱い人間には読むのがつらくなるようなグラフィックさが……。

バチカンを救え

Joseph Nassise さんから、2005年に出した The Heretic を今度電子版で出すので、書評を書いてくれないかとメールが来ました。Joseph さんはアメリカのホラー作家協会の会長をやっていた人です。デビュー作 Riverwatch はブラム・ストーカー賞と国際ホラー・ギルド賞にノミネートされました。また神殿騎士年代記という三部作を書いていて、これはドイツ語、ロシア語、ポーランド語、イタリア語、中国語に翻訳された国際的なベストセラーです。The Heretic はその三部作の第一作。しかも Joseph さんの自信作。

The-Heretic-350x511.jpg

1118年にエルサレムへ巡礼する人々を保護するため、キリスト教軍事修道会 Knights Templar が創立されました。あれは1312年に解散させられましたが、The Heretic においてはこの軍事修道会が蘇って、バチカンを悪の手から守る戦いを繰り広げます。

主人公は軍事修道会のなかの戦闘部隊 Echo Team の隊長です。名前は Cade Williams。彼は魔界の生き物と接触したときにサイコメトリー(何かに触れるとその物、あるいはその所有者に関する事実が読み取れる)の能力と、この世と魔界を行き来する能力を手に入れました。彼はこの能力を使って魔物から人類を守ろうとするのです。

軍事修道会の部隊が、黒呪術団 the Council of Nine によって次々と襲撃され始めたとき、Cade Williams の Echo Team が出動を命じられます。ところが調査をすすめるうちに Cade Williams は、まさに自らが所属する団体の、ある秘密を知ることになる。

そしてクライマックスは Cade Williams と魔物との対決。

ネタバレは書きたくはないので、あいまいな紹介でやめておきますが、いやあ、これは面白いホラー小説です。ある人が「ヘルレイザー」と「デルタフォース」が合体したような作品と称したそうですが、まさにそれら二つのスリルを合わせ持った出来で、世界的ベストセラーになったことも頷けます。

まず魔物との戦いや魔界の様子がよく書けています。抑制のきいた筆致なので、決してグロテスクや滑稽に陥ることなく、しかし異様な雰囲気が効果的に醸し出されています。そして戦闘シーンが次々と現れるから飽きるひまがない。

この戦闘シーンの合間に、軍事修道会の秘密を調査する過程が挟まれているのですが、これまた謎解きのスリルに満ちたものです。敵が襲撃してくる理由を探っていたら、実は味方の内部にとんでもない秘密が隠されていた、などという展開はよくあるものではあるけれど、やっぱり興奮させられる。

ジャンル小説というのは、実は文章力があって、物語の書き方に熟達していなければ、本当に面白いものが書けないのですが、この作家にはそういう基本的な力があります。

Joseph さんの作品はまだ日本語に訳されていないようですが、これは紹介して決して損はないと思います。

谷崎的イデオロギー論

小谷野敦氏の「現代文学論争」(筑摩選書)を読んで知ったのですが、谷崎潤一郎の「春琴抄」をめぐって論争が起きたことがあったらしい。簡単にいえば、春琴の顔に熱湯をかけたのは(1)佐助ではないか、あるいは(2)二人の共謀ではないか、と学者さんたちが想像力をたくましくして議論し合ったのだそうです。しかしテキストの中には佐助が犯人であることを示す証拠も、佐助と春琴が共謀した証拠もありません。だから結局のところ、くだらない議論として消えていってしまった。

真面目な顔をした学者たちがこうしたたあいもない議論に耽っている光景はほほえましくもあるし、また専門家でさえいい加減なことを言うことがあるのだから、わたしのような門外漢が少しくらい的はずれな解釈を提示したってかまやしないのじゃないかな、という勇気も与えてくれます。

「春琴抄」は美貌の琴の師匠、春琴に対する熱烈な賛美を弟子である佐助が捧げる物語です。春琴は横暴で我儘なのですが、それすら佐助は美化してしまいます。佐助にとって春琴は完全で、神聖で、侵しがたい、ある種の理想なわけです。その理想像は佐助のなかでふくれあがり、ついには現実像とかけはなれたものにすらなる。この賛美は一種のイデオロギーといっていいでしょう。

佐助をとらえるこのイデオロギーは本当はこわれてもよかった。それは彼女の顔に熱湯がかけられ見にくく歪んだ時です。ところがそうはならなかった。彼は自らの目をつぶすことによって心のなかの理想像を守ったわけです。

通俗的なマルクス主義によると、イデオロギー空間が破綻すれば人は現実の真の姿を見るようになるわけですが、谷崎はそれを批判しているようなものです。イデオロギーは実はそれが破綻するときにおそらく最強の力を発揮することがある。悲惨な現実が見えないように人々に目をつぶさせるわけですから。

わたしはこれは恐ろしい、しかし優れた認識だと思います。このようなイデオロギーの作用はこの作品が書かれた1933年頃の日本にも見られただろうし、2011年、今の日本においても起きていることではないのでしょうか。

Blake Crouch の新作 RUN

RUN.jpg

スリラー作家の Blake Crouch さんから先月末にメールをもらい、新作 RUN の書評を書かないかと言われました。もちろん RUN の宣伝活動として、大勢の人に同じようなメールを出しているのでしょう。この手の活動に興味のあるわたしは、二つ返事で引き受けました。

正直に言って、よいところもあれば、悪いところもある作品で、数字で全体的な印象をあらわすなら、70点くらいですか。

筋を簡単に説明しておきましょう。ある晩アメリカ南部において美しいオーロラが発生したのですが、それを見た人々は、異常な暴力性を帯び、オーロラを見なかった人々を殺害し始めるのです。どうもオーロラを見た人は頭の後ろに光がさし、彼らにはそれを見ることができるらしい。彼らは光のない人々を探し出し、有無をいわさず殺していく。

彼らは集団を作って殺戮を繰り返しながら移動します。このスリラーの主人公となるコルクロー一家は暴力集団の襲撃を逃れるため、ニューメキシコのアルバカーキーから逃走を開始します。暴徒によって壊滅させられた町をいくつも通り過ぎ、雪の降る山の中にまで追いこまれてしまいます。

コルクロー一家が山を越えていく場面はなかなか迫力があります。空腹、渇き、山の天候、危険な山肌の感触、家族間の葛藤と団結、それらが実に見事に描かれていて、この作家の実力を遺憾なく発揮した部分だと思います。この作品はジャンルこそスリラーですが、作者が中心的に描きたかったのは恐怖というより、恐怖と戦う家族の愛であるように思えました。

もともと dysfunctional だった家族がその絆を取り戻す。それは大いに結構なのですが、家族をはからずもそのような状況に追いこんだ周囲の事態にはいったいどんな意味があるのか、どんな寓意がこめられているのか。そういう点になるとこの小説は実に弱い。神学的あるいは反神学的な観念やら、ホロコーストの記憶やらがちりばめられているけれども、いったいこの状況がなにを表象しているのかがさっぱりわからない。家族がその過程で絆を再発見するたたかいはすばらしいけれども、しかし彼らはいったい何を相手にたたかっているのか。それが判然としないだけに彼らのたたかいの意味もぼやけたものになっています。

暴力を描いた小説は多いけれども、そのなかでも優れた作品は、暴力の根源にむけられた作者の視線を感じさせます。ゴールディングの「蝿の王」やレッシングの「五番目の子供」やバージェスの「時計じかけのオレンジ」。いずれも暴力の闇の中で、ドラマが展開されています。そして暴力の闇が深いからこそ、ドラマは意義深いものとなっている。

残念ながら RUN にはその闇の深さがない。それどころか、暴力は設定に過ぎないのであって、作者は現代における暴力の意味を真剣に問おうとはしていないのではないか。

ただ、暴力が支配する終末論的なアメリカの風景には、わたしは興味を持ちました。これは Cormac McCarthy の THE ROAD によって見事に定着させられた現代的な文学風景の一つといっていいでしょうね。もしも最近のアメリカ文学における終末論に興味があるなら、比較の意味で RUN を読むのも意味があるかもしれません。

李良枝作「刻」(2)

「私」は言葉にも苛立ちます。韓国語が読めてしまうということにも苛立つのです。その理由は韓国語がまさに「私」の言葉でありつつ、しかし「私」の言葉でないからです。

わたしはこの小説を読んでジェイムズ・ジョイスのことを思い出しました。ジョイスはアイルランドの作家です。この国は、ご存知のように、長らく英国に支配されてきました。アイルランドのもともとの言語はゲール語なのですが、植民地支配により母国語は一部の田舎で話されるだけとなり、日常言語は英語に取って代われてしまいました。つまりアイルランドは他者の言語をしゃべるようになってしまった。そのためジョイスの分身とも言うべき「若き日の芸術家の肖像」の主人公スティーブンは、イギリス人の学監としゃべりながらこんなことを考えます。

ぼくたちが今しゃべっている言葉、これは、ぼくのものである前にこの男のものなのだ。家庭ホーム、キリスト、ビール、マスターなどという言葉は、この男の口から出るのと、ぼくの口から出るのとではこんなにも違うものだろうか? ぼくはこういう言葉を話したり、書いたりするとき、どうしても心に一抹いちまつの不安を感じてしまう。この男の国語は、非常に馴染なじみ深く、しかも非常によそよそしいもので、ぼくには所詮しょせん、習い覚えた言葉にすぎない。ぼくはその単語を作ったり、受け入れたりはしない。ぼくの声がそれを追いつめる。ぼくの魂はこの男の国語のかげおおわれてらだつのだ。
(丸谷才一訳)


アイルランド人のスティーブンにとって英語は生まれた時から使ってきた言語であるにも関わらず、自分の魂を表現する言葉ではない。そういう苛立ちは「刻」の主人公であり語り手である「私」の感じる苛立ちとあきらかに通底していると思います。

いや、通底どころか、作者の李はジョイスの直接の影響を受けているのかもしれません。「刻」は「私」の二十四時間の心の動きをつぶさに追った小説ですが、それはジョイスの「ユリシーズ」を思い起こさせるし、一つの主題を何度も変奏させながら物語を展開する手法は「若き日の劇術家の肖像」の書き方と同じです。さらに物語の終わりがその冒頭につながっていく書き方は「フィネガンズ・ウェイク」を連想させるではないですか。

わたしは全体として見たとき、「刻」がそれほどすぐれた小説とは思いません。たとえばジョイスと比較をしてみましょう。ジョイスはアイルランド人として英語を使用することに違和感を感じながらも、ゲール語に還ることは偏狭なナショナリズムに過ぎないと峻拒した。しかし苛立ちながら英語を使って作品づくりに励んでいたわけではありません。それどころか、逆に、英語は英国人の魂を過不足なく表現できるのかと恐ろしい問いを問うたのです。「表現するもの」と「表現されるもの」のあいだには根源的な断絶があるのではないか、アイルランド人が英語に対して感じる苛立ちこそ、実はユニバーサルな事実ではないのか、と。言い方を変えれば、日本語は日本人の魂である、などという考え方をジョイスは徹底して粉砕する作品を書いたのです。

「刻」には残念ながらそのような問いはありません。あくまで「私」の内部の分裂と、それに対する苛立ちの表現にとどまっています。しかし自分のなかの落差を鋭く意識し、絶えざる落差を生み出す「刻」=「生」を自分のものとして引き受ける覚悟、それは言葉を紡ぐ者としての基本的で最低限の覚悟ではないでしょうか。わたしはこの作品を表現者の立ち位置をまっこうから問うた、珍しいくらい真面目な作品として珍重したいと思うのです。
Profile

tkaoru

Author:tkaoru
Welcome to FC2!

Latest journals
Latest comments
Latest trackbacks
Monthly archive
Category
Search form
Display RSS link.
Link
Friend request form

Want to be friends with this user.